北岳の話し
「山登りをやってます。」というと、
「エベレストは登ったことありますか?」と返される。
「とてもとてもぼくなんかが行ける所ではありません。」と答えると、
「じゃあ富士山はどうですか?」となる。
「富士山なら登ったことがあります。」というと、
「いい趣味をお持ちでうらやましいですね。」などど言って次ぎの話題に転じられてしまいます。
一とか百とか千とかの数字にこだわる人が多いです。谷川岳に行くと朝の土合駅で千回おじさんに良く合いました『智恵子一番、谷川岳二番』『谷川岳1000回、786回目』などと書いたガムテープを服に貼り付けているのですぐにそれとわかりました。千回おじさんが谷川岳千回を達成した時はNHKテレビで報道されました。報道によれば休むことなく谷川岳二千回登山に取り組んでいるとのことでした。現在は二千回登山を成功させ三千回登山にいどんでいるようです。
数字にこだわれば数字に拘束されるわけで、千回という達成感やテレビ報道されることなどと引き替えに谷川岳以外の山々に登ることで得られる別の山々の恵みを得る自由を失ってしまいます。少なくとも今の私は数字にこだわった山登りはしないように努力しようと思っています。それでも自然の岩場の5.11を登りたいなんて願望が消せなくて、意志の弱さになげくのです(不惑の歳はとうに越えたはずなのに)。
富士山は一番高い山で、そこに登ったから二番目に高い山に行こうと思いました。十九歳の七月(1969年)のことでした。南アルプスの北岳(3192m)がその山だと、誰に聞くともなく知っていて、その山を目指しました。ブルーガイドという登山のガイドブックの南アルプス編を買い込み、北岳へのルートを研究しました。池山吊り尾根からボーコンの頭を越えて北岳に登り大樺沢を下るコースが玄人ごのみでいいなどとある丁寧な案内文(コースガイド)があって、そのとおり行くことにしました。
大樺沢は雪があるというので先輩からピッケルを借り、二尺四寸のキスリングにビニロンの三人用のテント、シラフ、一泊二日の食料などを詰めて同級生三人で出かけました。中央線の夜行電車で甲府に行き、山梨交通のバスターミナルにあったベンチで仮眠しました。翌朝、広河原行きのマイクロバスに乗って深沢下降点下車、野呂川まで百五十メートル下って、吊り橋で対岸に渡り百五十メートル登り返してようやく吊り尾根コースの登山道をとらえました。池山御池小屋を過ぎ、ボーコンの頭に達したころに夕方となりました。当時はビニロンとか綿とかウール主体の縫製品、ホエブスにハンゴウに生米に、水2リットル、弁当箱くらいの大きさのラジオ・・・なんていう装備でしたし、よけいな荷も多くてずいぶんと時間がかかってしまったのです。ボーコンの頭の這松の茂みの間にテントが張れそうな所を見付けてテント泊しました。酒もほとんど?飲まない年齢、理系の少年ばかりの話しべた、夜行の寝不足もあって19時には三人ともシラフの中で爆睡してしまいました。
朝が白む前に起きました。テントは薄黒い雲海の上にありました。東の空が紫になり雲海はピンク色から茜色に染まりはじめていました。テントから出て、ビニロンのヤッケを着て、寒いはずなんだけど暖かくしていっぱい寝たからか寒さを感じなくて、ずっとずっと、雲海の色の変化を見ていました。黄色に光りまぶしく太陽の上端が顔を出して、雲海を朱色に染めました。赤い海はほんの数分、こんどは白い海となりました。太陽が登りました。太陽のすぐ右隣に富士山が並んでありました。朝です。
テントを撤収して、難関と言われた八本歯の悪場も楽勝に越えるころ、太陽は空高く昇りいつのまにか雲海も消えていて正面の視界はでっかい北岳に八割も覆われていました。真正面に北岳バットレスの岸壁が三千百九十二メートルの頂きから垂直に六百メートル切れ落ちて大樺沢の雪渓の上に至っているのが見えます。あんな岸壁を登る人がいるそうな。
八本歯のコルに重荷を置き頂上を往復して、ぼくらは大樺沢の雪渓を下り始めました。トップを行くK君がいきなり逆さまになって滑り落ちて行きました。頭が下になってキスリングの上に乗っかっています。キスリングが雪車になってスピードがグングン上がりかけていました。「K!」と叫んでぼくも尻で滑って追いかけました。雪渓の上に漬け物石みたいな落石が所々にあってKが頭をぶつけないか心配です。スピードが出てきたのでぼくはピッケルを使って本で読んで知っていた滑落停止をしました。滑落停止で止まったんではなくて傾斜が緩くなって止まりました。大樺沢の源頭は出だしは四十度くらいの急傾斜ですが三十メートルも行かないうちに二十度に満たない緩さになっているのです。K君も頭を下にしたままで止まりました。怪我はしていませんでした。今から思えば三十メートルも滑っていないのですが、三百メートル滑ったみたいな気持ちになって雪渓の上に立ちました。足がカタカタ震えて背中が曲がって真っ直ぐに立てませんでした。三十分ほど休憩したら、元気が出てきて、何事もなかったように大樺沢を下り、広河原に出てマイクロバスの車中の人となりました。
その後の北岳に行った年表を書いて文を閉じることにします。いずれ北岳の話しの続きを書こうと思っています。(文:M浦)
1969年 10月 大樺沢~北岳~稜線小屋~間の岳~農鳥岳~奈良田
1970年 7月 大樺沢~北岳~肩の小屋~白根御池~広河原
1970年 8月 白根御池~北岳~間の岳~塩見岳~兎岳~赤石岳~広河原(もう一つの広河原)
1971年 6月 大樺沢~北岳~肩の小屋~白根御池~広河原(デート山行もどき)
1972年 9月 大樺沢~北岳~肩の小屋~白根御池~広河原(デート山行)
1986年 7月 白根御池~二俣~aガリー~中間バンド~第四尾根取り付き~先行パーティ多く撤退
1987年 8月 広河原~白根御池~二俣~第五尾根枝稜線~中間バンド~第四尾根~北岳~肩の小屋~広河原
1992年 8月 広河原~白根御池~二俣~下部岸壁十字クラック~二股~広河原
1994年 1月 鷲の住山下降点~野呂川~池山吊り尾根~北岳~北岳稜線小屋~間の岳~農鳥岳~奈良田
1996年 7月 広河原~白根御池~二俣~dガリー~中間バンド~第四尾根~北岳~肩の小屋~広河原

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