« November 2005 | Main | January 2006 »

December 15, 2005

たぬき山と携帯電話

12月10日土曜日、夜7時に集合場所の八王子駅に着いた。

改札口出た正面にHata講師と今回のメンバーのR氏とSさんとAさんが待っていた、さっそくHata講師の車に乗り込んだ。H講師車は白っぽいベージュ色のワゴン車で四輪駆動、中央のシートを倒すとダイニングテーブルが出て来るというすごいやつだ。
「昨日スタッドレスタイヤを履いたばかりだ」
とだれかに「伝えてる」のが聞こえた。

あきるのインターから高速に乗り高坂サービスエリアに八時着、もう一台のMura氏の車とそれに同上のBさんとTさんを待つことになった。Hata講師はMura車に電話をかけていた。車に電話をかけるなんて一昔前までは意味の通じないフレーズだが、みんなが携帯電話を持っているから可能なのだ。
「もしもし、今どこですか。」
Hata講師が切り出す。
「今嵐山を通過中だからもうすぐ着きます。ごはん食べて待ってて。」
Mura氏からの答えが返る。
「了解です。」
ということで一行はサービスエリアの軽食コーナーへと移動した。食券を買って、それぞれが自分の食べ物を手にし始めたころ。Mura氏からHata講師に電話が入った。
「間違えました。今寄居パーキングを過ぎてるから、行き過ぎです。」
とのこと。
「ハァ?」
っとまだ理解出来ないHata講師。
「本庄児玉まで行って戻ります。」
「ハイ!」
Hata講師はようやく状況がつかめて、ゆっくりの食事をして待つこととなった。二十分ほどしてまたHata講師に電話が入った、
「あと五分で東松山インターです。インターを出た所で待ちます。」
だって、けっこう早かった。

ただちに高坂サービスエリアを出発、五分後に東松山インターに到着、二台の車が合流した。

Mura氏車は軽自動車で、四輪駆動、下り坂は130Kmが余裕で出る。しかし、上り坂は最速で60Kmである。いつも普通車に置いていかれるのでトランシーバーが二台積んである。そのうち一台が東松山でHata講師車に渡された。けれど、Hata講師の後続車を気遣う丁寧な運転のおかげでトランシーバーを使うことなく、11時にわたらせ渓谷鉄道の沢入(そうり)駅に到着した。着いた途端の11時に、タイマーでセットされていたらしく駅の電気が消えてしまった。後はヘッドランプの世界だった。

沢入駅はログハウス風の建物で待合い室の床はウッドデッキだ。シラフを出してすぐ仮眠しよう、と思ったら寝たのはBさんだけだった。Tさんが720ミリリットルの芋焼酎を出してきた。
『若い女の子が芋焼酎かいな?』
と思った、『僕の人権意識は希薄???。』
人数が多いからアットいう間に飲んじゃって、みんなシラフにもぐりこんだ。厳冬季用のシラフを持ち込んだHata講師とBさんと将来はTimtamの冬山行を背負って立つだろうR氏、年寄りと言われたくない年寄りのMura氏、と最年少25歳のSさんはがんばった。他は早朝2時ぐらいの寒さに耐えられなくて、いつの間にか、沢入駅舎から抜け出し、駅舎から30メートルほど離れて暖房をかけていたMura車の中でヌクヌクする人となった。

朝まだ暗い6時に起きて思い思いの朝食を食べて、二台の車は沢入駅を出発、林道の中間点の「たぬき山」の取り付き(地図に書いてないし案内表示もない)にMura車をデポ、一週前ほど前に家で転んで、立てかけてあったちゃぶ台の足にぶつかって、肋骨が折れちゃったTさんがHata講師の車を運転して三境山の登山口に廻送してくれることになった。Tさんはわたらせ渓谷鉄道に乗って、温泉行ったり美術館に行ったりする「関東甲信越小さな旅」をするのだそうだ。朝から温泉行くなんて経験がない僕はちょっぴりうらやましくなる。
「午後1時にトランシーバーの電源を入れてね!」
とMura氏が言った。
「携帯の電池がすぐ無くなるから携帯の電源も1時に入れるわね!」
「運転、気をつけてね。」
「そっちも気をつけてね」
Tさんの見送りの言葉を背中にHata講師の先導で7時30分に出発した。

林道をしばらく行き、右から出合う「たぬき山」に向かう涸沢に入る。道はない。
「沢沿いに行くと最後が急登になるから、右の尾根をとらえましょう。」
とHata講師。尾根上には二センチほど雪が積もり、以後三境山まで雪の上を歩くこととなった。雪が深くないのでスパッツはいらないが、すごく寒くて手袋や耳の隠れる帽子なしでは歩けない。

道なき尾根を登って「たぬき山」の山頂着9時
「予定より早く着きそうですね。」
Hata講師が言った。ちょっと間を置いてから
「待ち合わせ場所に来る道は何本もあるから・・・Tさんがどの道から車を廻送して来るかわかんないから・・・Tさんを夜まで待たせちゃうから・・・???」
聞こえるでもなく言ってて、みんな聞こえちゃった。

Hata講師はTさんの携帯に電話したけどつながらない(相手は電源を切っている)。それで、メールを送ろうとして、
「アレ、もう電池がなくなちゃった。夜、車で充電したのに!!」
と小さめの声で言った。
「それでは私ので」
とBさんが携帯電話を出したがやはり電池切れ表示、なんと、AさんのもSさんのもR氏のも電池切れ表示が出て使えなかった。Mura氏のは電池切れ表示は出ないけど圏外表示が出てる。
「フォーマは山じゃまだ使えないな!」
Mura氏は彼から何度か聞いたセリフをくり返した。
「携帯をお腹の中で暖めておきましょう!」
Hata講師はそう言って、パーティを出発させた。

三境山に向かう道なき尾根上には所々古びた赤テープの目印が見付けられて少し安心した。10時に尾根がT字にぶつかって県境尾根に出た。尾根の南側に日だまりをみつけて大休止をした。何人かが携帯電話を試すも電池切れ表示が出続けるどころか電源が切れてる人もいた。
「三境山の登山口に下りたら、僕がツエルト張って待ってて、みんなは林道を歩いて下山するのがいいんでない。」
Mura氏が言った。
「私もツエルトあるから、みんなで待ってましょう。」
とHata講師、
「私も持ってるわよ!」
とBさん。

パーティに三つもツエルトがあるのが判明して一安心、T字にぶつかった尾根で道を右にとって歩きだした。五分ほどで分岐あり(A分岐とする)。地図を読んで右の尾根を行き30秒で小ピーク、ここに分岐があってそれは左にとれば・・・左に大きな尾根はなく細い尾根が一気下っている。
「とりあえず、下ってみましょう。」
とHata講師が先頭に立った。3分も下りないうちに、
「間違いです。左に見える尾根がそれですね。」
と説明した。

県境尾根に出たと思ったのは間違いだった。さっきのA分岐まで戻り、左の尾根を数分行って再度T字にぶつかった尾根が本物の県境尾根だった。県境尾根は地図上に登山道の記載はないのだが、道はしっかり踏まれていた。三角点を示す石よりちょっと細い四角柱の石が百メートルおきにきのこが出て来るみたいな感じで設置されていたし、太い赤テープの目印もしっかりとつけられていた。ついでに、『→三境山』と書かれた手書きの導標も見つかった。Aさんがひかえめに小さく、でもはっきりとした口調で
「メール送れました。」
と言いました。みんなに聞こえたみたいで、笑顔はよけい笑顔になっていました。Aさんはやさしくて律儀な人なのです。

三境山着は11時だった。コンロの火をたいて、Bさん持参の甘酒を作って体を温めたけど、この日来てる寒波はただものではないらしくて、寒くて寒くて、
「12時には着いちゃうけど出発しましょう。」
Hata講師が言ってくれたから、なんかうれしかった。

三境山を下りたら、すぐに右に分岐があるはずなのに見あたらなくて、行きつ戻りつしながら、地図を読んで
「分かりました、もう一つピーク越えるんだ!」
とHata講師が説明した。
10分ほどでもう一つのピークを越すと、『←三境山・登山口→』と書かれた手書きの道標を発見、りっぱな踏み後を20分も下りたころ。
「Tさんの車来てたら感動だね!」
とMura氏が少し大きめの声で言う。
それから5分下らないうちに、白いHata講師車が見えて来た。Hata講師が車の窓ガラスをたたいた。

Tさんが中から出て来た。(J記)

| | Comments (0)

December 12, 2005

22年の時を隔てて

1983年 夏~初秋

お盆休みに北アルプスの立山から槍ヶ岳までを単独でテント縦走をしました。多数の人が同じピークで休憩し同じテント場で宿泊することを繰り返すので、その人達の間に次第に仲間意識が出来て来るようです。僕らもいつの間にか見ず知らずの六人が集まって一つのパーティみたいにメンバーシップを持って行動するようになっていました。新穂高温泉に下山した時には、その六人で山岳会を作ろうじゃやないかという話しにまで盛り上がっていました。

でも僕はなんとなく物足りなかったのです。残りの五人は北アルプスの縦走で様々な素敵な体験に出会えてうれしくて仕方ないけれど、学生時代はワンゲルにいた僕にとって、それはいい感じではあるけれど、もう何回も出会った場面でしかなかったのです。例えば初めてブロッケン現象を見てみんな大興奮なんだけど、僕は
『ア、ブロッケンだ!』
ぐらいしか思えないんです。それで、
『ぼくは彼らの山岳会には入らない!・・・これからは、縦走でなくて沢登りをやるんだ!』
という決意を、帰りの電車に乗る時には、固めていたのです。

家に帰ってひさしぶりに山と渓谷誌(1983年9月号)を買いました。
『ネパールのニルギル南峰への遠征を終えて帰国したIwa氏が沢登り教室をの開催する』
とインフォメーション欄に書かれているのを発見しました。人に教わるなんて気はなかったのに、なぜか、魔がさしたのか
『ママヨ!』
という感じで参加してしまいました。それは、9月の第一週の日曜日でした。丹沢の大日沢という所に行ったのですが、ロープを出すようなハラハラする場面なんかなくてワンゲル時代の沢歩きと同じ感じで終了しました。

9月の二週になって仕事が軌道に乗り出すと僕はいつのまにか山に行かないフツーの社会人に戻っていました。

日付は忘れたけど、9月半ばの日の夜八時ごろ、仕事から帰って夕ごはんを食べてウィスキーの水割りを作ってコハク色の液体の中で氷を踊らせてカラカラと音なんかさせて
「ウーン・・・サントリー」
なんてつぶやいたとたんに、例のIwa氏から電話がかかって来ました。
「日和田山で岩登り教室をやるから来ないか?」
というものでした。僕は、彼が営業で電話して来たことには気付かず、
『なんて親切な人だろう』
なんて思って、参加を快諾していたのでした。

1983年の9月23日の秋分の日に行われたその教室が僕の初めて日和田山の岩場行となりました。Iwa氏と後にIwa氏夫人となるYuukoさんと、それに日本で初めてゴアテックスの輸入販売を試みていたSada氏の三人が指導者で、講習生はぼくと、後に「童人トマの風」という山岳会を作るTeji氏と雑誌「岳人」の現役編集者のNaga氏の三人でした。

子供岩でロープワークを習って男岩の南面でリードアンドフォローのクライミングをして。暑さを避けて、男岩北面でトップロープのクライミングをするころに、にわか雨が降ってきました。Sada氏の提案で女岩の西面(ハングだから岩が濡れてない)に移動しました。日本でのフリークライミングの試みが女岩の西面のハングで行われてまだ一年と八ヶ月くらいしか経過していないない時代でした。その時代の潮流に乗って、Sada氏は女岩西面の各ルートをクリアしたばかりでした。それで、彼はうれしそうにルートの説明をしてくれました。毎週通って、半年で登れたという話しが印象的でした。

ここで、そのころの岩登り事情ちょっとだけ思い出して記してみます。
EBというクライミングシューズが時代を席巻していました。EBを買えない人は陸上用の軽い運動靴を使っていました。人口登攀で登られていたルートをアブミを使わずに登るフリー化ということが盛んに行われていました。確保のシステムは原始的でシットハーネスをつけてにエイト環でビレーするというのが最先端でした。メインロープのハーネスへの連結がブーリン結びから八の字結びに変わろうとしていました。もちろんフリなどというムーブは一般に知られていなくて。指立て伏せ毎日数十回、電車のつり革に指の第一関節だけかけて持ってついでにつま先立ちしながら通勤、片手懸垂毎日数回なんてトレーニングをして正対で腕力に任せてガシガシ登って、フリーだフリーと言っている人が僕の周りに何人もいました。

さて、1983.9.23も夕方近くとなり、雨も上がりました。女岩西面の中央左側のテラスまでは今日の参加者に丁度良いということでみんなでテラスまで登ってそこに立ち上がるまでをワイワイとトライしているうちに暗くなって来て、講習会は終了となりました。山道を下り高麗駅に着いて、電車待ちの時間に、参加者みんなで20回の指立て伏せなんかして盛り上がっていました。

僕は、その後22年もの間、日和田山の岩場の女岩の西面の各ルートを登ってみるチャンスがなかったんです。実は、何度か近くまでは行ったのですが、誰かがトップロープを張って占領していて、順番待ちの人やギャラリーが多くて、
『僕なんかがトライするのはまだ早い!』
なんて感じで臆しちゃってすごすごと帰って来るしかなかったのです。

,

2005年 初冬

おととい(2005.12.10)の土曜日に、なぜか引きずられるように思い立って、女岩西面を登りに行きました。混んでいたら名栗方面に移動して小岩井サンセットロックという所に行くつもりでした。この日は天気は快晴で暖かいクライミング日和でした。ところが、ふしぎなことに、あるいは超ラッキーなことに男岩も含めて人影がまばらだったのです。信じてもらえないかも知れないけれど、なぜか、女岩西面は僕ら(4人)以外には1日を通して人が来ませんでした。

「中央ルート5.10d」の上にトップロープをセットしました。こうすれば「右ルート5.10b」と「ど真ん中ルート5.11a」の三つが登れます。もう一は、「鼻ハング5.10d」の上にセットしました。鼻ハングのトップロープのセットは難しいです。ぼくのトップロープは人に見せたいぐらいの自信作でした。

始めに「中央ルート」に登りました。下から三分の二ぐらいの所でテンション、3度ほどトライして断念しました。次が「鼻ハング」、右手のガバで止まって、左手を一つ上の小さいホールドでつないでチョンチョンという感じで鼻の付け根のガバをとります。うまくやらないと体が反時計回りに回転して剥がされます。次に右手でその上の縦のピンチをとって、そのすぐ上に左手が・・・出せなくて、力が尽きて断念しました。

少し休んで右ルートにトライしました。ガバが続くフリのルートでなんなくクリアしました。トップロープですがフラッシングです。調子に乗って再び中央ルートにトライ、今度は抜け口のすぐ下までスーット上がれたのですが、そこでジタバタしてテンションして、一休み、そしたら右手の小さなホールドが見えて、それをとってワンテンションでクリアしました。

いい調子になって来たので。鼻ハングのトップロープをはずして、左ルート5.10b(日本のフリークライミング発祥のルートです)にセットしなおしました。例のテラスまで慎重に登りました(22年前に登れてるから自信あり)。ホールドをつかまずテラスの上にバランスで立ち上がります。そっとそっとつま先立ちになって、左手を出っ張りに添えて、右手をクラックの中に入れます。クラックの一番下から10センチくらいの所に左に引けるガバを発見、そのガバをつかんで左足をアウトサイド置き、右足を切って左手を伸ばして、下に引けるガバがとれて、体を振って右足をアウトサイドに置いて、左足を切って右手を伸ばすと、もう一の下に引けるガバがとれて、もう一回体を振って、抜け口上のテラスにある最終のホールドを、左手で探しに行きました。見えないから手探り、左、真ん中、右と探して、右の方にわりと効くホールドを見付けて、それに頼って体を引き上げ、一気に登り終えました。(J記)

,

<先輩の言葉>

やれば出来るというのは 間違いだ

どんなにがっばっても出来ないことが ある

願っていればそれに近づくというのが 正しい

選択肢があれば 近い方をとる

そしてまた選択肢があれば 近い方をとる

そして だんだん願いに近づいて行く

いきなり チャンスがやって来る

願っていれば 見逃さない

| | Comments (0)

December 06, 2005

岩登り教室誕生の物語

1996年の秋、
縁あってフランスの地質探査会社の日本支店(神奈川県に会社があった)の山岳部と知り合いになり、そこの部員三名といっしょに伊豆城ヶ崎海岸・富戸エリアで地質調査を行った。トップロープを張って岩登りをするが彼らの地質調査のやり方だった。9年前のバブルの時代は仕事も遊びもバブルだったと思う。

その地質調査のおかげで富戸エリアの岩登り教室という講習会がうぶ声を上げた。
・奥武蔵の日和田山の岩場の男岩西面のステミングフェースをクリアしたぐらいの人が練習するのに丁度いいルートが並んでいる。
・南隣の入り江(バンブーエリア)、そのまた南隣の入り江(○○エリア)と移動すれば硬軟様々なルートをさらに求めることが出来る。
・岩と海と、遠くの見える大島ということで、景色が良い。
・東から南に開けた入り江で晴れれば冬でもポカポカ暖かい(夏は暑すぎる)。
・入り江の浜がが開放的な広さ(テニスコート1面くらい)を持っている。
・富戸駅から歩いて20分の距離にある。
・富戸の民宿街は伊豆高原のそれと比べてひなびている(さびれているのかな?)。
・岩場の高さが10メートルほどで威圧感がない。
・トップロープが張りやすい。
・城ヶ崎海岸駅や伊豆高原駅が起点になる岩場から遠いので人があまり来ない。

以来、翌年の秋より8年連続で富戸エリアの岩登り教室が開かれて来た。

伊豆の首都圏からの遠さが問題である。
朝7時に東京駅を出発すると、岩場到着は11時になってしまう。講師が早めに行ってトップロープを何本か張っておくことで対応しているから夕方までに8本くらいは登れる。けれどその後に、往路と同じ時間(4時間)をかけて帰ってしまうのではもったいない。一泊して温泉三昧して翌日も岩登りをすればいいというだれでも考えるところだ。

それで、その後も城ヶ崎の岩場をいくつか偵察した。
・門脇崎エリア・・・つりばしあり、ロケーション良い、観光客が多い
・ファミリークラックエリア・・・ロケーション良い、観光客が多い、クライマーが多く混雑、トップロープ張りづらし(リードしてロープを引き抜く登り方が暗黙の了解になってる)
・シーサイドエリア・・・レベルの高いクライマーで一杯、レベルが高くないクライマーはは固まる
・あかねの浜・・・よそそう、高さあり

そういうわけで城ヶ崎では今一つ良いエリアが見つかっていなくて、他の場所への転戦しようかという案もあった。しかし、これもまた、いい所はみつかっていない。
・伊豆大仁の城山・・・正面壁はマルチピッチで上まで登りたくなるのでボツ。
山頂直下のクッキングワールドはルートはいい感じだが、大仁の町を真下に見下ろすロケーションは高度感がありすぎるし、広場がなくてエリアがせまい、何人かのガイドが講習会をやってるらしいのでそれとバッティングするとにっちもさっちもいかなくて、車がないとアプローチが大変などの理由でボツ。チューブロックエリアは難しすぎてボツ。
・沼津・鷲津山の岩場・・・ロケーション良い、南面の岩場で暖かい、ルートが多い、けれど、車がないとアプローチが大変なのでボツ。
・湯河原・幕岩・・・ロケーション良い、暖かい、ルートが多くて良さそうだけど、休日が大混雑なのでボツ。

9年前に例の地質調査会社の山岳部員の案内で富戸の他にもう一カ所行った場所があった。富戸エリアがいい所だとわかった後だったのと地元の山ヤさん達に案内されてるがゆえの油断のためにそのエリアがどこだったかわからなくなっていた。いつかチャンスがあったらそこが何処だったか同定したいと思っていた。

この12月3日(土)に富戸エリアの岩登り教室があって参加した。
講習の最後の方でそっと富戸エリアを抜け出して、マイカーで城ヶ崎海岸駅前の駐車場に向かった。
・城ヶ崎海岸駅から歩いて行った。
・防風林の藪に一筋に踏み跡がついていた。
・入り江の浜に降りるのにはしごを使った。
・高さがあまりなくて
・トップロープで登られていた。
・入り江の浜が広かった(テニスコート反面くらい)。
・硬軟様々なルートがあった。
・日曜日なのにだれもいなかった。
・遊歩道から遠く観光客に見られなかった。
そんな記憶がたよりだった。

いがいがね駐車場の方に向かってとぼとぼと歩き、道の右に踏み後を探した。踏み後は見つからずに喫茶ジュピターの前の海に向かう道の入り口まで来てしまった。しかたなく海に向かう道に入り、遊歩道に出た。南下する方向に遊歩道を歩き、入り江をみつけると釣り人の残した踏み後をたどり海まで出てみることをくりかえした。

三つ目の入り江がそれだった。9年前と同じようにボツボツと錆の出たジュラルミン製のはしごがかかっていた。はしごを降りてすぐ左に四級プラス程度のルートがあったはずだけど無いみたいだ。9年前の記憶は半分は合ってたけど、半分は別の記憶と入れ替わっていた。(J記)

  ふるさとに 大きな大きな坂があった

  ふるさとに 家はなく友もなく

  幾星霜のち ふるさとに来た

  ふるさとに 小さな小さな坂があった

| | Comments (0)

December 02, 2005

ラッキョウの思い出

食べ物に好き嫌いはないと言い切ってしまいたいのだが、甘酸っぱいものはちょっとだけ苦手である。酢と砂糖を合わせるあの味だ、酢豚の味と言えばわかっていただけると思う。もちろん食べられないわけではない。

子供のころ、なんでも食べるぼくだけど、甘酸っぱく味付けしたラッキョウだけがダメだった。ところが、そいつが月に一度くらい小学校の給食のメニューに登場して来るのだ。給食用のアルマイトのお皿に大きなラッキョウが二個とあと何だったか思い出せない食べ物が盛りつけられて出て来るのだ。そういう日は、噛まずにそいつを丸飲みすることで全食クリアーする食いしんぼのプライドを守ったものだった。

小学校の帰り道、自動車がようやくすれ違える程度の道の、学校のフェンスの対面に小さなペット屋(小鳥屋)さんがあって、そこにいる九官鳥やオウムなんかを飽きもせずずっと見ていて、いわゆる道草を食うことがよくあった。

ある日、そのペット屋さんの向かい側の学校のフェンスの前に台が置かれていて、その上に日本ザルが鎖につながれて座っていた(たぶんそのサルは売りに出されていた)。サルの前で手を上げると、目の玉をおデコごとつり上げて見上げて来るのが面白くて暗くなるまで観察していたような気がする。

ほどなくして、給食にラッキョウが出る日がやって来た。担任の田中耕二先生は新任の若い男性で、その日は音楽の吉田 宏先生(こちらも若い男性)によく可愛がられる高部ルミさんと北井照子さんのグループとそれをねたんだ高柳洋子さんと佐野裕子さんのグループの間のトラブルに巻き込まれていた。給食の時も田中先生にまったく余裕がないわけで、ぼくは易々と十人分(20個)のラッキョウをザラ紙にくるんでランドセルの中にしまい込むことが出来ていた。

その日の放課後、ぼくのクラス(4年2組)の男子数名(エート、エート男子の名前は松岡 満くんしか思い出せない)は校門から全速力でペット屋さんの前まで走って行った。ぼくは、ラッキョウを一つ取り出してサルの前に置いた。サルがラッキョウを手に持った。
『よく観察しよう』
なんて思う間もなく、アットいう間に食べちゃった。
「皮むかないじゃない!」
などと少年達は言ったか言わないか。
二個目のラッキョウも三個目もそして最後の二十個目も、アットいう間に食べちゃった。

それから十二年経過して、ぼくは大学ワンダーフォーゲル部の4年生になっていた。その年の夏合宿は男子が平ヶ岳から大水上山まで、女子は平標山から谷川岳を経て巻機山までの縦走するというものだった。研究室の都合かなんかで男子の合宿に合流出来なかったぼくはそれを理由に女子の合宿に合流することになった。もう、そう決まった時は天にも昇るような気持ちで、ワクワクドキドキ・・・?。

それは8月3日のこと、土合駅から白毛門岳を越えて合流点の朝日岳に着、夜になっても女子パーティが来ないのでツェルトビバークをすることにした。朝日岳山頂付近は頂上から宝川温泉方面に5分も行かない所に水場があって快適なビバーク地、星は見えなかったけれど、朝の雲海はきれいだった。

8月4日、雲海が消えて、昼間になってもまだ女子パーは来ない。後輩の檍(アオキ)京子さんとか伊藤英子さんとか鐘ヶ江貴子さんとかに朝日岳の頂上で感動的に再会するという計画は、なんかダメになったみたいな予感がしてきた。これが男子パーティを待ってるなら下山してしまったんだろうけど、ボクの心は紫のまだら模様があるピンク色になっていたので、非常食を食べながらもう一日粘ることにした。

どうしてビバークで、どうして非常食なのかと言うと、4年部員は偉いことになっていて夏合宿ではテントや食料などの荷の分担がないのだ。それで、女子パーティに合流出来なければ食料などあるわけがないのだ。

8月5日夕方、非常食も食べ尽くしたぼくは下山しないで、もう一日朝日岳の頂上で待つことにした。それは女子パーに頼まれた小さな食料の包みを実は持っていて、それを食べたらもう一日は大丈夫と判断したからだ。夜になってその包みを開けたら、中身はカレーライスに添えるはずの八人分のラッキョウだった。8月5日の夜と、8月6日の朝と昼と、三食、ラッキョウを食べてたら清水峠の方から女子パーの戦闘機のような
「ファイトォ、ファイトォ・・・」
の声がして、しばらくしてその実体が朝日岳に登って来た。1年生の原 澄江さんがバテバテで一日予定の半分ずつしか進めなかったのだそうだ。

頂上で、感動の再会と思いきや、なぜか檍(アオキ)京子さんが口にコンタクトレンズを含んでいて、思わずプッと吹いてしまい。這松の間をみんなでコンタクト探すことになった。三日も待ったこの瞬間は思い描いていたのとあまりに違う(四つんばいで這い回る)構図だった。

翌日以後、屈強の男子であるぼくが荷の分担することで女子パーの機動力は一気に増大、勇躍、巻機山への縦走が成功することとなった。そして、ぼくがラッキョウが大好きになるというおまけがついてきた。(J記)

   <先輩の言葉>

    山はかへる   人をかへる

    人はかはる   山でかはる

| | Comments (0)

« November 2005 | Main | January 2006 »