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February 23, 2006

山靴の詩

1968年4月6日僕は東京理科大学ワンダーフォーゲル部に入部しました。その話しは“今日のtimtam”の2月9日の記事「氷壁登山ブーム」の中に書きました。今回はその入学式の翌日の飯田橋界隈が舞台です。

入学式の翌日、放課後になって、僕はさっそくワンダーフォーゲル部の部室を訪ねました。二号館と三号館という建物の間にあるプレハブの二階にそれはありました。プレハブの一階は体育会本部と自動車部の部室になっていました。
『ボッ、ボクは体育会なんだ???』
とふしぎな感情がみなぎりました。ちなみに、現在の僕は体育会系の範疇にはないと思っています。
「こんちはース!」
と体育会系の口調で挨拶して部室に入って行きました。部室の真ん中に長い木のテーブル(教室にある学生用の三人掛の机)それを夾んで長い木の椅子(同椅子)が二つおいてあって、入り口正面の棚の上にはビニロンの黄色いテントがいっぱい、その下に何が入ってるか見えないスチール製の幅90センチ高さ180センチのロッカー、右上の棚に大きな鍋が十個ぐらい乗っていて、左に窓が二つあって窓と窓の間に本箱らしき棚があって山の本とか雑誌とか書類のファイルが雑然と立てかけてありました。真っ黒く日焼けした先輩の男が3人、シケモクをふかしながら座っていてギロリとこちらをにらみました。
『先生ってのは大学のクラブにはいないんだ、コワイトコカモ?』
なんてビビッテいたら。先輩の方から声がかかってきました。
「もう靴を作りに行ったか?」
何のことだかわからなくてそれでも僕は
「???・・・アッイエハイ」
とか答えました。
「ジャア!オレが行ってやっか?」
としゃれたブレザーを着てスラリとした二枚目タイプの先輩が言いました。
「ホエ!」
と僕。

ブレザー先輩と僕は部室を出て、外階段を下りて、三号館のモータープールを抜け、花屋のわきの道から神楽坂通りに出て、神楽坂を下る方向に向かい、外堀通りを渡り、飯田橋駅の西口を過ぎて、左に曲がり駅の北側ぞいの細い道を水道橋方面に向かい、飯田橋駅の東口を左に見て信号を渡り、さらに続く細い道を行くこと三分の右手にある小さな山靴屋さんに行き着きました。店の名前は『二葉』といいました。

おとなしい感じのじいさんとその奥さんが、店番をしていました。
「こいつに靴を作ってやって」
とブレザー先輩がいいました。
じいさんはなんかモゴモゴと言いながら足台を出してきて、A3大の紙をその上に敷き、僕の足にそって鉛筆でなぞって紙の表と裏に左右の足の形を写しとりました。それから、布製のメジャーで足甲の周りとか足首の周りとかの長さを計り、A3の紙の実物と対応する場所に線を引いてに記入したり、何やらメモしたりして、三分くらいで採寸を終了しました。それはそれは手慣れた動作でした。

「どの靴?」
と小さく言う、じいさん、の右目の目線の方向に棚があって靴の見本が並んでいました。靴の種類は一般型、新型D環つき、スキー兼用靴、クレッターシューズ、チロリアンシューズしかありませんでした。ローカットのチロリアンシューズを除けば、どれもほぼ同じ形で色も黒一色でした。
「新型D環つき!」
とぼくは答えました。『新型』だからいいんじゃないかと思ったからです。じいさんはなめし皮を何枚か持ってきて、
「フが○○皮、フが××皮!」
とか見せて来ました。『ドイツのリカー皮』と言ったのだけは名前の記憶があります。
「一番安いので頼む」
ブレザー先輩が言いました。
「一ヶ月たったら、六千円持っておいで、お金と引き替えだよ!」
じいさんの奥さんが言いました。お金のことは彼女が担当していたようでした。

一ヶ月後に僕は『二葉』の登山靴のオーナーになりました。秩父の新人強化合宿、北海道日高の夏合宿、秋の奥多摩の個人山行、冬のスキー合宿(スキー靴を買えないで登山靴でスキーを履いていた一年部員が多かった)、OB会の山小屋でのスキー個人山行、東北孫六温泉周辺スキーツアー合宿・・・一年間で八十日もの山行に使いました。二年部員になって山行日数は百日を越え、三年の時も百日ぐらいは使いました。ビブラム底は三回張り替え、本底も一回変えました。

四年部員になった時、その靴が大分に傷んだので、僕は二足目の靴を『二葉』で作りました。二足目はスキー兼用靴タイプ(兼用といってもカンダハーというワイヤービンディングとマッチングがいいというだけで実態は普通の登山靴)に新型D環をつけた形にしてもらいました。その登山靴は三十六歳まで使いました。使う頻度が少なくて、靴への思い入れも薄らいで、手入れもまったくせずでした。それで、靴はガチガチのガビガビになってしまいました。ある時、ゴキブリが何匹か靴から出て来るのを見て、怯えた僕は勢い余って靴を捨ててしまいました(大切にしなかった事を今はシビアに反省しています)。

二足目の『二葉』の靴を捨てた頃、多くの登山者達が“どんな山でも皮の重登山靴で行く”ことをしなくなっていました。冬山はプラスチックブーツ(現在はプラスチックブーツは売ってなくてソフトブーツの時代になってます)、夏山は軽登山靴、沢は運動靴と沢登りシューズ、岩はアプローチシューズとクライミングシューズというふうに使い分けるのです。豊かになって、用途に合わせて、たくさん靴を揃えられるようになったせいもあれば、
『日本の夏山にヒマラヤ登山にさえ使えるような靴で行くのはTPOが違うんじゃないかなー?』という考えが浸透してきていたせいもあります。

ちなみに『二葉』のお店が無くなったのはぼくがちょうど三十歳になった春でした。現在、飯田橋の東口近くにあった『二葉』の建物(一階はお店、二階は仕事場)は、建て替えられてコンクリートのビルになり、一階は洋食レストランで二階より上は事務所になっています。

ニッカホースに短い毛糸靴下を重ねて皮の重登山靴を履き、グレー色ウールのニッカと大きなチェック模様のウールのカッターシャツを着た、もと二十代(今六十代)の登山者に出会うことが、今でも、かなりの頻度であります。そん人に出会うと、おとなしいじいさん靴職人とその奥さんと『二葉』の靴を思い出すのです。

最近、友人からほとんど未使用の『二葉』の靴をもらうことが出来ました。青山図書室の書棚の一角に展示してあります。(文:松浦)

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February 21, 2006

軽登山靴を買って山に行こう

 『山と渓谷2月号』は駅弁特集でした。2月に行く雪山の特集でなくて、駅弁???。本誌の厚さも1月号の四分の三くらい、スノーシューイングブックみたいな付録もありませんでした。
 1月15日の『山と渓谷』の発売日に一人の若者(以下、図書館さん)が住んでる街の行きつけの図書館に行きました。図書館に入ってすぐの所に新刊雑誌の閲覧コーナーがありまして、
『どんなのあるかな?』
とチェックを入れたら、『駅弁』の文字が目に飛び込んで来ました。図書館さんは『青春十八切符を使っての“駅弁食べ歩き旅”』が好きだったので、何気なくその雑誌を手に取りました。
『登山と駅弁の組み合わせ・・・フーッ』
そんなぐらいで、雑誌コーナーにそれは戻される流れだったんですが、たまたまその時は、他の雑誌を他の人達が閲覧中で、ちょっと待って状態でした。それで、仕方なしに、図書館さんはパラパラパラとページを繰って最後の方まで斜め読みを続けていました。
『ヘー、教えてくれる所があるんだ』
『超初心者対象?』
『超!・・・ここに行ってみようかしら!』
『入場無料、予約不要・・・めんどくさくないわ!』
図書館さんは
『恵比寿区民会館、25日、7時30分』
を記憶して、それを雑誌コーナーに戻しました。
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 1月25日はちょっぴり暖かいけど曇りの日でした。図書館さんは仕事を終えて渋谷駅から山の手線の内回りに乗りました。家に帰るのは外回りです。なんか気が向いたんです。恵比寿で降りて、駅前交番に行って、区民会館の場所を聞きました。若いお巡りさんが、奥の先輩のお巡りさんに聞いてくれて、それで、外に出て、横断歩道の前まで連れて行ってくれて、道を教えてくれました。
「まっすぐ行って信号あるけど、それも真っ直ぐ行くと左側、五分かかんないですよ!」
図書館さんは
『場所がわかんなかったら恵比寿の街をブラブラだったけど、親切に教えられちゃったから、一応、恵比寿区民会館に行くかな!』
と思ったのでした。
 区民会館の二階にある三十人ほどが座れる会場に十人弱の人がポツポツと座っていました。前の方にキサクそうなおじさんがいて、『深雪の山の話し』をフグタマスオさん(役の声優さん)みたいなイントネーションで話していました。図書館さんはスノーシューとかシールとかワカンとかの実物をめずらしそうに手に取ったりして、けっこう面白がって聞いていました。会場に同じ年頃の女性が二人いたのでなんとなく安心したのもありました。
 なぜか、
「一番最初に何をそろえればいいのですか?」と質問してしまいました。
「靴とザックと雨具だけど、なんてったて靴が最初!」
とおじさんは答えました。それでもって、会場にいた図書館さんより少し年上の女性(もしかして年下かも知れません、ダウンみたい上着を着てたので以下、ダウンさん)に
「君の靴いくらだった?、この人と一緒に靴を買いにあげてくんない?」
と話しかけました。
それでもって、
「この人は9月から山を始めた人、それまでハイキングもしたことなかった
んだって!」と紹介しました。
 ダウンさんも『「コンロとコッヘルを買いに行きたい!』ということなので、とんとん拍子で二人の山道具屋さん靴買いツアーの話しがまとまりました。
「靴売り場に行ったら、“雪が降った時に東京近郊の山に行ける程度の靴がほしい”と言うんだよ!」、おじさんは二人にキーワードを伝授しました。
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 はたして、次の週の木曜日、図書館さんとダウンさんは新大久保の登山用品店に行って店員さんに丁寧に靴を選んでもらったそうです。それで、図書館さんはダウンさんとおそろいで色違いの靴を買ったんだそうです。ダウンさんはコッヘルにはいいのがなくてコンロとカラビナを買ったんだそうです。(J記)

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February 09, 2006

氷壁と登山ブーム

ぼくの父は六年間、兵隊にとられ中国を転戦していました。終戦となり、運よくすぐ(1945年8月)に日本に帰って来ました。新潟県村上市の実家に戻り、何もしない日々を数日続けるうちに、戦前に働いていた東京の会社から業務を再開するので出社するように呼び出しがかかりました。勇躍東京に出て、仕事も軌道に乗り出したところで、『見合い』の話しが来ました。相手の女性がキツネ神社の『占いさん』に聞きにいって、
『東京の人のトコ嫁に行け』
と気が出て???、父と母の結婚が決まりました。1949年、父、三十四歳の春でした。翌、1950年の春にぼく(長男)が生れました。

1945年の太平洋戦争の終戦から1950年の朝鮮戦争勃発の頃までは戦後の結婚ラッシュ、その時生まれた“ぼくら”はその数において他の世代を圧倒し、団塊の世代と呼ばれています。

戦争が終わって、山の世界も活況を呈していました。1950年にフランス隊がアンナプルナ(標高八千メートルと少し)の登頂を成功させました。それに刺激されて、エベレスト、ナンガバルバット、・・・、と十三しかないヒマラヤ八千メートルが次々と登られていました。そして、1955年に日本隊がマナスル(八千メートル峰)の登頂を成功させたのでした。そのニュースは、戦争に負けてプライドを失っていた日本人達に大きな希望を与えたようです。戦後日本の奇跡的な復興のさきがけとなった出来事と言われています。そして日本に登山ブームが起きた原因とも言われています。

朝日新聞に『氷壁』が連載され、それが映画化されたのは1959年のことでした。当時小学校の3年生だったぼくは、母が結核という病気にかかってしまったため、父の実家(前記の新潟県村上市)にあずけられていました。なぜか、そのあずけられた父の実家の家族みんなで『映画・氷壁』を見に行きました。

『映画・氷壁』のストーリーについては何の記憶も残っていませんが、
岩にハーケンを打ち込んでロープをかける所、
小坂さんが落ちて、魚津さんが切れたザイルを見る所、
雪面にピッケルを刺しながらゾンデ捜索をする所
大きな焚き火で遺体を焼く所、
などのシーンは小さい子供だったぼくを衝撃と恐怖におののかせ、四十五年経った今でも、くっきりした映像の記憶となって思い出されるのです。

1959年の頃には結核の特効薬のストレプトマイシンが発見されていましたから、それを五十本ほど注射して、母の病気は治りました(ちょっと耳が遠くなる副作用あり)。それで、ぼくの田舎暮らしは一年で終わりました。

『氷壁』がどんな話しかがわかったのは、私が三十五歳の時で、先輩のIwa氏にこれぐらいは読んでおいたらと文庫版の本を貸してもらったからです。

話しが現在に転じます。リメーク版の氷壁が土曜日の午後十時から放送中(NHK)です。 先々週の水曜日に恵比寿区民会館に言ったらの受付のおばさんに
「『氷壁』を見ましたか?」と聞かれて。
「いいえ」と答えました。
「三つ峠でロケしたらしいですよ」と言われて、
「そうらしいですね、雪山のシーンはニュージーランドだって聞いてます」なんて聞いたふうな答えを言ってしまいました。三週前にハイキングに言った時に同行のY君が
「前穂でなくて、K2が舞台になったとか、三つ峠とかマウントクックでロケをした」、とか言っていたからです。先週の土曜に日光のスノーシュー登山に行って、湯本の民宿に宿泊しました。宿の隣の部屋からNHKのリメーク版『氷壁』の放送音が聞こえていました。その部屋には六十代くらいの女性が三名宿泊しておられました(廊下ですれ違ったので、それと推察)。ぼくの方のメンバーは、テレビを見ないで宴会して、早めに寝ちゃいました。

話しをもどして、1968年、ぼくは大学生になりました。入学式の日は沿道をサークルの勧誘ブースが埋めていました。
「新強と夏合宿だけつらいけど、冬はスキーをやって楽しいわよ!」、日焼けした痩身の先輩女性から声がかかりました。
『体育会だけど、あんなに細い女の人が続けられてる・・・、スキーがただで教われる・・・、中学や高校での経験がいらない・・・、山岳部じゃないから遭難はない・・・、いいかも・・・』、と思ったぼくは、その場でその部活つまりワンダーフォーゲル部の入部届けにサインをしていました。その週末には白毛門山で新人歓迎山行がありました。新入部員は男子三十二名、女子七名、ちなみに女子の名前は覚えています。室屋さん、永井さん、宇田さん、伊藤さん、新井さん、小野さん、尾本さん。男子の名前は多すぎて数名しか思い出せません。

次の年の1969年ワンダーフォーゲル部の新入生は十人を切りました。またその次の年1970年はなんと四人、焦って勧誘をがんばり1971年に十五名入ったけれど、残ったのは六人でした。以後、現在に至るまで、二人とか一人とかゼロ人とかの状況が続いています。登山ブームは1970年ごろに終了していたのです。

登山ブームを担った団塊の世代とその少し上(10年くらい上まで)の世代が社会の中堅を担うころ、そのほとんどは山を忘れて懸命に働き、結婚し、子供を育てました。

団塊の世代とその少し上の世代が余暇を楽しむタソガレ流星群の歳(1990年ごろから)になった頃、彼らは再び山を目指しました。若い頃にやりたくても出来なかったことを取り返そうとしたのでしょうか、それとも長い時を隔てても再開したくなる魅力が山にはあるのでしょうか?・・・。ともあれ、彼等の山へのエネルギーはすさまじく、第二次の登山ブームと言われるほどになったのです(担い手が中高年だったので『中高年の登山ブーム』と呼ぶ人も多い)。

もうすぐ、その中高年登山ブームは終わることでしょう。彼らが漸次、歳を重ねるからです。そして、新たな世代(二十代、三十代、四十代)に登山のバトンは受け継がれることでしょう。その世代には小学校や中学校の林間学校ぐらいしか山に行くという情報がインプットされることはありませんでした。ちなみに、最近は、林間学校はスキー教室とか農業体験教室とかに代わって行く方向にあります。

バトンタッチに団塊の世代の若い方(1949年、1950年生まれ)の世代(つまりぼくらの世代)の役割で、その方法には発想の転換が必要な気がします。

新しい世代に『氷壁』に出て来るような冬の前穂の未踏のルートや『リメイク版 氷壁』に出て来るようなK2の冬季初登を狙うというような冒険登山を目指すことを勧めない方が良いと思います。現在、未踏のルートはあんまりなくて、あるとすれば極端に難しい(難しすぎて登れないから未踏)のです。

新しい世代には“四季おりおりの生活の延長線上にある山、日常生活を豊かにする山”を勧めるのがいいと思います。(文:松浦)

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February 01, 2006

山岳スノーシューTSL225はスグレモノ

1998年2月、Timtamの前進の山塾サポートの主催で乳頭山や秋田駒ヶ岳を目指した講習会が孫六温泉をベースに行われることになりました。講師はワカン隊が私(=松浦)で山スキー隊がK氏でした。

講習会実施の二週間ほど前に、山の仲間のW氏(現Timtamの講師)から連絡がありました。
「友人に原田さんという人がいて日本スノーシュー連盟の代表をしていて、スノーシューの山での可能性をチェックしてほしいと思ってる。10台ほど孫六温泉気付で送るから使ってみてほしい。そして、めんどうでもレポートといっしょに送り返してほしい。」
とのことでした。スノーシューに新たな可能性のありそうな予感がしたのでしょうか、私はその要請を快く受けていました。それで、参加メンバーに事情を説明し、お願いしてワカン隊をスノーシュー実験隊に変更させてもらいました。

1月~2月あたりの東北の脊梁山脈の森の中にはフカフカの深雪が何メートルも積もっています。ワカンを持って行っても、それは浮力が小さいので、腰までもぐる厳しいラッセルを強いられます。山スキーでさえ膝より上くらいまでもぐる所なのです。そういう所での山スキーは登り(シール使用)も下りも中~上級者向きです。初心者の方は登りのキックターンごとに、滑降でスピードがちょっと出るごとに転んでしまって長駆進めません。初心者の方が孫六温泉から乳頭山のコースに山スキーで行くなら雪がしまる3月の半ばまで待った方が無難です。秋田駒は例外で圧雪されたスキー場から往復すれば1月~2月でも深い雪の場所を通過せずにすみます。ただし、激しい風雪には充分な注意が必要です。

孫六温泉に送られて来たスノーシューはジュラルミンのパイプで作った大きな足型のような形をしたワッカにデッキと呼ばれるプラスチックの皮を張ってありました。中央より少し前にビンディングがあり、靴の先を差し込んで太いゴムを靴の踵に引っかけて止めます(昔のスキーの“ワイアーを踵にかけてつま先より前にある金具で引っ張って止める”タイプのビンディングの“ワイアーと金具”が“太いゴム”になってる感じ)。ビンデイングには足の親指の付け根くらいの位置に蝶番構造がほどこしてあって踵が上がります(ヒールフリー)。踵が上がるとつま先が下がります。そのつま先部分に十二本爪アイゼンの出刃のような爪がついていて、その爪で雪を蹴って前に進めるのです。北米大陸のエスキモーの人達の間で使われたものが原型になったようなので以後このタイプをエスキモースノーシューと記します。

エスキモースノーシューの浮力はそれはそれは大した物でした。山スキーとほぼ同じくらいしか雪にもぐりませんでした。スキーと違って歩くのに技術がいらないので上手な人とそうでない人が遠く離れてしまうこともありませんでした。ブッシュや樹木に行く手を阻まれても小さく曲がってそれをクリアー出来ました。
しかし、エスキモースノーシューには欠点がありました。
①急斜面の登りでワカンのようにキックステップよろしく斜面を蹴込んで水平に足を置くことが出来ません。ヒールフリーのために靴を水平にしてもスノーシューは斜面と平行になってしまうのです。だからワカンのように斜面を直登することが出来ず、山スキーのように斜登高して方向転換(ヒールフリーの山スキーよりは長さがない分方だけ向転換は簡単)することをくりかえしながら登ることになります。
②ワカンと違い、爪がサイドになくて、中央にあります。ちょっと雪面が堅くなるとトラバースする時にスノーシューを水平に置けません。サイドエッジがないスキーが斜滑降が出来ないのと同じです。
③下りは、踵の部分が大きく長いので、踵から足を踏み降ろすことは出来ても踏み込みの力が集中しません(踏み込みの圧力が小さい)。時々出てくる急斜面のややしまった雪では踵の部分のパイプが滑ってうまく立てません。そんな斜面では、トラバース&方向転換でないと下れないのですが、前述のようにトラバースはままならないのです。
④ゴムを引っ張って止める構造のビンデイングなのでゴムを取り替えないと小さい靴から大きい靴までフルアジャストさせられません。スノーシュー連盟からの荷の中に取り替え用のゴムが入っていなくて、靴とスノーシューを合わせるのは大変でした。また、山の中では、激しい使い方をするので、少し劣化したゴムなら切れる可能性が大です。山の中で、切れたゴムの取り替えは用意ではありません。ゴムが劣化して弾力が落ちればスノーシューが脱げ(はずれ)やすくなることも予想されます。
⑤秋田駒から笹森山経由で孫六温泉に下る環状のロングルートでの試用実験で、ゴムは切れません(十台全て切れず)でしたが、底に取り付けてある爪(スパイク)が剥がれてしまうものが二台ありました。森林限界を超え、クラストし、所々に岩が出ている稜線を歩いためです。

もともと、エスキモースノーシューは、山登り(麓から頂上までいろんな条件が出てくる)に使うようには設計されていないのです。
「エスキモースノーシューは雪の積もった林道や、雪原を歩くための道具です。だから、なだらかな山(スキー場の初心者用の緩斜面程度の斜度を登り下りする)でしか使えない。」
というのが結論でした。

日本スノーシュー連盟が出来たころ、日本山岳ガイド連盟でもスノーシューに注目した人がいました。赤沼氏(燕山荘のオーナー)がその人です。山岳ガイド連盟(現山岳ガイド協会)のスノーシュー部門のリーダーとして活動を開始していました。

孫六から帰り、レポートも送って一段落、山で使えないエスキモースノーシューなんて眼中になく、1年弱が経過した1998年12月、「日本スノーシュー連盟と山岳ガイド連盟の活動がバッティングすることがあって、利権争いなんてことが起きたらこまるから、松浦さんその橋渡しをしてくれませんか?」と日本スノーシュー連盟の技術委員をしている橋本さん(もと都岳連の遭対委員長)から要請がありました。

それで、勇気を出して燕山荘に電話して赤沼さんと話しました。
「お互いに自由にやりましょう」
という話しになってホットして。エスキモースノーシューの孫六温泉周辺の山での使用実験の話しをしました。赤沼さん曰く
「山で使うならTSLの225というスノーシューがいいですよ!」
半分信じてなくて、孫六温泉の講習会のもう一人のリーダーだったK氏にその話をしました。興味はあったけれど山スキー隊だったためにスノーシューの使用実験に参加出来なかった分、K氏にエネルギーがありました。彼は数日のうちにTSL225を自分で購入して、それでもって日光の三本松あたりでそれを試す計画を持ちかけてきました。1999年の2月11日のことでした。

TSL225の性能は抜群でした。我々はそれを山岳スノーシューと呼ぶことにしました。それを使えば今まで山スキーでしか行けなかったフカフカの雪の山に行けて、山スキーでも行けなかったフカフカ雪でブッシュや灌木の多い山にも行けるようになると確信しました。

TSLのスノーシューはスノーラケットが原型のようです。踵の所にラケットの杖のような出っ張りがあり、雪と接地するところに小さな垂直尾翼がついています。パイプで出来ていなくてプラスチックで出来ているので、道具としては安っぽい感じ、エスキモースノーシューのようにインテリアデザインの一部に組み込めるほどの味がありません。そのTSLのスノーシューの中にあって、山岳用に設計されたのが225です。

TSL225の最大の特徴はワンタッチでヒールをフリーからフィックスの状態(踵が固定された状態)に出来るのです。ヒールがフィックスされるのでキックステップが可能になります。四十度もの急斜面の直登が可能です。スノーシューの踵が靴と一体になってついてくる分、階段のような所での取り回しが用意です。下りも踵キックステップのように足を踏み出すことが出来て快適です。登山用品として作ったことがわかるのはアタッチメントとして専用のアイゼン(スキーアイゼンをイメージして下さい)があります。ビンディングは全ての靴にフルアジャスト出来ます。雪山用重登山靴用のワンタッチビンディングのついたモデルもあります。

TSL225には欠点もあります。
①堅くしまった雪の急斜面でのトラバースが、サイドにスパイク(中央に8ヶついてる)がないのでやりづらいです。
②堅くしまった急斜面での下りが、踵の部分が大きくて、さらに、ラケットの張り出し部分と垂直尾翼が邪魔してやりずらいです。
*現在のデザインでは斜面の下を向かずに上を向いて正対して、スノーシューのつま先をキックステップ(直登高と同じ動作)しながら、トラバースしたり下ったしてその欠点を補うしかありません。
③ワカンに比べて大きく重いのです(エスキモースノーシューよりは軽い)。
④フカフカ雪の下りは爽快ですが、トレースを下るとなるとスキーで下るように滑れないし、ワカンで下るより疲れる(ワカンよりもスパイクが効いてしまう分ブレーキがかかって足に負担がかかる)ます。
*とまれ、欠点を補ってあまりある深雪の山での機動性を持っています。スキーと同じようにストック二本を持って軽快に歩きます。

「フツー!」という既存の概念にネックを感じます。
スノーシューは踵が上がるヒールフリーの構造になっているのがフツー!
平な雪原のような所をハイキングするのに使うのがフツー!
パイプで出来ていて皮(人口皮革)成のデッキがはってあるのがフツー!

女の人は料理や掃除が上手!
男の人は車を運転するのが上手!
学校の先生には春休みがある!
登山家だから寒さに強い!
なんていう既存の概念に似ています。そういう「フツー!」とかいう思いこみはまわりの人がかってに決めつけることではないと思うのですが、根強いです。

高峯温泉ホテルのレンタルスノーシューはTSL225でした。225の踵固定金具が全て取り除かれていたので、ホテルの人に聞いたら
「お客さんがヒールフリーで使うことしか考えないから、毎回のようにある踵が上がらないというクレームに根負けしたので、金具をとってしまった。」
とのこと。

「スノーシューの技術とエリアガイド」という本が2004年秋に出版されました。説明に使われているのはエスキモースノーシューで、エリアガイドは日光戦場ヶ原、裏磐梯などのスノーシューハイキングコースとして整備された所のみでした。スノーシューのでの登りと下りの解説文の中に的を得たキックステップの説明はありませんでした。僕と同じように既存の概念でスノーシューを考えたら、エスキモースノーシューになります。山岳スノーシューTSL225はもしかして、その優れた機能を知られることもなく使われることもあまりなくて消えて行くのではないかと心配しています。(文:松浦)

フツーでない山岳スノーシューTSL225を手にしたら、そいつに耳を当ててみると、
「日本の深雪アンド新雪の山はオイラにまかせてよ!」
そんなメッセージが聞こえて来る。

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