« September 2006 | Main | November 2006 »

October 27, 2006

DNAと教え好き

週末になりました。今日は金曜日で明日と明後日は山に行きます。最近は土曜日に休めないという理不尽をする職場が増えているので、土曜出勤の方も多いかも知れませんね、月から金までがんばって仕事したので土日連続で山に行くのを大目に見て下さい。
,
ところで、月火水木金土日の一週間があって日曜日は休みなのが何処で決まったのか知っていますか?
,
それはキリスト教に起因します。旧約聖書の創世記という所に次のような記述があるのです。
始めに神は「光あれと!」言いました。
神様は一日目つまり月曜日に昼と夜を作りました。火曜に大地と海、水曜に植物、木曜に動物と次々と作りました。そして“木曜日の終わりごろ”土をこねて自分に似た形を作り、息を吹き込んで、アダム(男性)を誕生させました。神はアダムに言いました、
「この世界をおまえに与える、自由に楽しく暮らすといい。」
アダムは言い返しました、
「私一人ではどんなに素敵な世界をいただいても楽しくありません。」
神様は一晩考えることになりました。土曜日に神様はアダムの体から骨を一本抜き取って、それにどろをかぶせてもう一つの自分に似た形を作り、息を吹き込んで、イブ(女性)を生みました。アダムとイブはうれしそうに手を取り合って神様の作った世界の中に入って行きました。それを見て神様は次の日つまり日曜日にゆっくり休むことにしました。キリスト教の人達にとって日曜日は神様が休む日ですから自分達は仕事をしていけない日なのです。だから日曜は休日で午前中は教会に行ってお祈りする日なのです。
,
キリスト教の人達は人類の発祥の地はキリスト教が発生したヨーロッパにあると思い、長い間その証拠をさがしていました。残念ながら、人類の発祥の地はアフリカの南部あたりだというのが現在の定説です。
,
アフリカ南部の広大な森に人類の先祖となる猿が住んでいました。地殻が変動し猿の住む森の中央に山脈が隆起しました。偏西風のおかげで山脈の東側は雨が降り森が残され、山脈の西側は雨が降らずに森は草原に変って行きました。山脈の東側の豊かな森に残った猿はチンパンジーに進化しました。山脈の西側の森を追われて草原に出た猿は大型肉食動物(サーベルタイガーなんか)にどんどん食べられて絶滅する所でしたが、棒を持って立ち上がって難をのがれる猿(人類)に進化して絶滅をまぬがれました。その猿(人類)は直立して立ち上がったので、大きな脳を首の骨がささえ持ち高速で移動することが出来たのです。脳を大きくしても運動性能にあまり差がないなら知恵のある分厳しい草原で生活するのに有利なので、人類はどんどん脳を大きくする方向に進化したのです。結果とした森を追われた方の猿(人類)は知恵→道具→火→服→環境へ適応力の増大→地球全土への放散という道をたどることになりました。森(エデンの園?)を追われたがゆえに人類は火を操る地上の君臨者となったのです。
,
人類とチンパンジーは極めて近い種です。そのDNAの設計図はほぼ同じです。どちらも15歳くらいで大人になり家族を得て子供を育てます。ところがチンパンジーの寿命は40歳で、人類のそれは100歳くらいです。チンパンジーと人類のDNAの設計図はその寿命の所だけが大きく異なるのです。 , それは人類は知恵を使って生きていかなくてはならなくて、大人になるまでの15年ではその知恵の取得が追いつかないからなのです。人類は40歳になって子育てが終わり生物に義務づけられた命のバトンの受け渡しの仕事が終わったかに見えて、さらにまだ生きて、その子供達に知恵を伝え続けないといけないのです。40歳から80歳までの期間は子供達に知恵を伝えるために使う期間だとして、DNAは中高年(40歳から80歳の人に遺伝情報ということで本能として命じているのです。
,
それで、中高年になると教え好き、説教好き、レクチャー好きになります。あんまり知らないことでもちょっとでも聞きかじっていれば後輩に教えようとします。だから中高年が多くいるとこの花がなんだ、あの山はなんだ、あの人はどうなった、ロープワーク、歩き方、道具、パッキング、読図・・・うるさいくらいに伝えようとします。百名山の一般ルートとか交通の便が良くて導表の完備したハイキングコースに中高年が多く出没して、危険を避けて団体(渡り鳥や草食動物が大きな群れ移動するのに似ている)でいます。その団体がなんともうるさいのは遺伝子DNAのせいなのです。
,
春と秋の温暖な季節の晴れか曇りの日曜日、日和田山の岩場で中高年の大きな団体を見かけることが多くなりました。日和田山の岩場くらい交通の便が良くて、Ⅲ級~Ⅴ級といったやさしいルートがたくさんある岩場がないからでしょう。一般登山道で出会う岩場を安心して通過するために日和田山で岩登りの練習をするいう人も多いようです。うるさいだけでなくて、やたらめったらトップロープを張って登らなくなってもそのままなので困っています。午後3時になると一気にいなくなるのでそれまで待つこともしばしばです。
,
『30分以上使わないトップロープは回収する。』
『男岩南面のや女岩南面はトップロープでなくてリードアンドフォローで登る(夏場を除く)。』
といった日和田ルール(暗黙のもの)の必要性を感じています。ただし、フリークライミング用に整備されている岩場ではないので、リードしてロアーダウンしてロープをすぐに引き抜いて次の人に譲るという「フリークライミングの外岩ルール」を持ち込むのはやめてほしいです。Timtamでも毎月一回、奥武蔵の日和田山の岩場で基本ステップの岩登り教室を開講しています。日和田の担当講師は上記の日和田ルールを守るようにしています。 (J記)

| | Comments (0)

October 06, 2006

キラリンとひらめくように

ぼくが中学に入学したのは1962年です。中学1年生の5月に生徒総会というのがあって講堂に集められました。生徒総会というのは前年度の各委員会(例えば生活委員会とか放送委員会とか)とか部活動の事業報告と会計報告本年度の事業計画案と予算案が審議されて多数決で承認するという全生徒の集会です。その生徒総会の議題の一つに「ワンダーフォーゲル同好会の設立の承認の件」というのがありました。中学3年のオニイサンやオネエサン達が壇上何人か出てきて話しのやりとりがあって、議長さんが
「承認する方は拍手をして下さい。」と言いました。
まわりの生徒達がパチパチと拍手したので、ぼくもつられて拍手しました。こうしてぼくの中学にワンダーフォーゲル同好会が出来たのです。「同好会」は1年間ちゃんと活動すると「部」に昇格出来る決まりでした。

実は僕はテニス部に入りたかったのですが、一つしかないテニスコートに50人くらいの新入部員希望者が来ていて、「タマヒロイばっからしいぜ!」とか「運動部と勉強の両立は難しいんだって!」といううわさがあって入部を迷っていたのでした。校舎(昔だから木造)の2階と3階の間の階段の踊り場の所に、
「ワンダーフォーゲル同好会部員募集!クボチンがんばれ!」
という小さなポスターが張ってありました。
それが目に入ったとたん、キラリンとひらめくように
『ワンダーフォーゲル同好会に入ろう!』と僕は決めていました。
クボチンというは社会(日本地理)の先生のことです。クボチンから出るオーラみたいな何かがそのキラリンとひらめいたの理由なんだと思います。

ワンダーフォーゲル同好会の普段の活動は夏休みと春休みに出かけて行くエコノミックな旅行の計画を話しあうことと、休みになったらその旅行に出かけて行くことでした。その旅行の引率はクボチンがしてくれました。1年生の夏休みは学割団体(半額以下になります)を使っての鉄道の旅でした。参加生徒は30人くらいいました。上野から信越線普通列車の夜行で市振へ、親知らずの海岸を歩いて名前を忘れた町に出て、お寺をみつけて本堂に泊めてまらいました。ぼくらのリックサックには毛布が一枚と水筒と着替えがワンセット入っていましたから、毛布にくるまって眠ったんです。お寺の本堂ではなかなか眠れなくて、クボチンと住職が酒盛りしている音を長く聞いていました。

親知らずから北陸線で金沢に移動、教会の礼拝堂の中に泊めてもらいました。礼拝堂の長椅子の上の長い座布団の上の寝心地は抜群で思い切りよく眠れました。金沢から能登半島を北上し、渡し船にで能登島に渡りました。海岸でウニ捕ってカレースプーンで殻を割って食べました。能登島のキャンプ場の貸しテントに泊まりました。能登島からどういう乗り換えをしたかわからないのですが、次は伊那大島駅に行き「寝覚めの床」とかいう渓谷を見て公民館に泊めてもらいました。たぶん飯田線で岡谷に出て東海道線で東京まで帰ったと思います。全て普通列車の旅ですから2泊くらいは列車の中で過ごしたんだと思いますが記憶がありません。トンネルに入ると窓を閉めても入って来る蒸気機関車の石炭を燃やして出た煙を浴びて、服も顔も黒く染まっていました。

ワンダーフォーゲル同好会冬休みの活動は寒いのでありませんでした。春休みは房総半島一周のサイクリングをしました。当時の道はほとんど舗装されていなかったから、なんともつらかったです。伴走するクボチンのミゼットに積んであるテントに泊まり、お湯を入れただけで出来るインスタントラーメン(当時「日新のチキンラーメン」は東京では手に入らなかったので「明星ラーメン?」とかいう名前でした)を昼も夜も食べてすごしました。

中学2年生の6月ごろクボチンが病気(肺結核)になって、ワンダーフォーゲル同好会の活動は立ち消え状態になってしまいました。東京オリンピック以前の時代です(東京オリンピックはぼくが中学3年生の1964年10月10日開会です)。毎日しかも長い時間にわたって中学生が部活動をする時代ではありませんでした。ワンダーフォーゲル同好会の仲間達はみな好んで今で言う帰宅部になりました。学校でなくて家の近所で小学生から中学2年生(就職を控えた中学3年生は今よりずっと大人でしたから遊びません。)までの子供達が集まって道路や空き地でかくれんぼや草野球をして思い切り遊ぶのがまだまだ許されていた時代だったのです。

青春18切符、普通列車、ステーションビバーク、駐車場テント泊、青山図書室で仮眠・・・などなどの方法を屈指して山に行く「エコノミック三百名山登山教室」が始まります。僕の中学時代にたった1年で終わったワンダーフォーゲル同好会の旅が再び始まるみたいです。それを聞いてキラリンとひらめくように参加して来る人がたくさんいますように。そしてそれが楽しい山旅になりますように!。(M記)

| | Comments (0)

October 05, 2006

道志の加入道山

2006年10月1日、丹沢山塊の奥、道志の加入道山へ登ってきました。
,
ここは、いつも静かで、主稜線上のブナ林が気持ちよく、ちょっと予定のなかった休日にふらりと出掛けることの多い、私のお気に入りの山なのです。
,
参加者が時間通り集合してくれましたので、高尾山口駅前をすぐに出発、甲州街道をJR藤野駅まで進み、左折して道志方面へ向かいます。狭くて曲がりくねった国道から道志の湯方面に曲がり、登山口に到着したのはちょうど9時頃でした。
,
それからNさん車の応援で講師車を下山口に置いてきて、9時半頃出発しました。この時点ではまだ曇りでしたが、歩き出して間もなく、雨がぽつぽつと降り始めました。
,
加入道山頂までは約2時間半、ちょうど正午前に到着しました。いつも通りゆるゆるとラクラクペースで登っていたら、途中で本降りとなってしまいました。
,
避難小屋で大休止してから畦ヶ丸に向かったのですが、みんな雨の強さに辟易して、先に進むのが嫌そうな口ぶり (^^;
,
しかし、この先の稜線上こそ、このコースの一番の見どころなので、往路だけで終わらせてはあまりにももったいない。やや強引にモロクボ沢の頭まで進んでもらうことにしました。
,
鹿にひどく皮を剥がされてしまった樹木にみんなで驚いたり、いくつか知った樹木の名前を教えてあげたりしているうちに、横浜市野外活動センターへの下山道入口まで来ました。
,
下山口になる横浜市野外活動センターへの道は、モロクボ沢の頭を中に挟んで両側に2箇所ありまして、ここは手前の方になります。
,
ここでみんなに確認してみたところ、雨が小止みになっていたせいか、気を取り直してくれていて、もう少し進んでみよう、ということになりました。
,
再び小さなアップダウンの続く、ブナの尾根を歩き始めます。一時は小鳥がさえずり始め、薄明るくなって、好天の期待を持ったりしました。しかし、やがてまた雨が強く降り出し、モロクボ沢の頭に着く頃には再び本降りになってしまいました。
,
ここで14時半。畦ヶ丸を往復していると1時間かかり、天気予報も夕方から雨なので、もう止みそうもありません。また、下山道の途中に枯れ沢状の場所があって、この本降りの中では水が出る可能性もあります。残念ながら、ここで下山することにしました。
,
モロクボ沢の頭から下り、横浜市野外活動センターへのもうひとつの下り口から主稜線を離れます。
,
この下山道は特に下がフカフカで、歩きやすさに感心する声もありました。カエルを見つけたりして、ちょっと浮き立つ場面もあり、案内している身としてもややほっとしました。心配された枯れ沢状の場所もいつも通りで、問題ありませんでした。
,
約1時間で下りきり、講師車に戻ったのは15時半頃。土砂降りの中、未舗装の林道を20分ほどかけてノロノロと戻り、登山口のNさん車を回収します。
,
道志の湯は目と鼻の先なのですが、みんな支度をしていないということなので残念ながら見送り、そのまま帰途につきました。
,
ゲストの方が横浜の方でしたので、八王子駅まで送ることにして、Nさん夫妻とは高尾駅の先で流れ解散ということにしました。Nさん、Sちゃん、ありがとうございました。
,
ところで、ゲストの方は、登山におけるゴアテックス雨具の威力をご存知なかったため、ナイロンにゴム引き加工したハイパロン製で、すぐに蒸れて内側がビショ濡れになってしまいました。
,
これまで普通の生活をしてきた人に、1万円もする雨合羽が理解不能なのは無理もありません。こればかりは、実地に体験してみないとわからないんですよね~ (^^)
,
今回、天気に関しては巻機以上の本降りで、初めての完敗です。それでも、参加してくれた方々の気持ちをなんとかフォローできるよう、ちょっぴりがんばってみました。
,
このプランを決めた頃は、気が抜けたようになっていたように思います。今後は少し気を張ってプランしてみます。よろしくお願いします。(H記)

| | Comments (0)

October 04, 2006

八ヶ岳での話し

三年に一度義務付られている山岳ガイドの資格更新研修に行って来た。研修場所は八ヶ岳!。

9月29日(金)の夜8時にマイカーで東京を出発、美農戸口の駐車場に23時ごろ到着した。三段ある駐車場の一番下の段つまりバス停から一番離れた所に車を停め、その隣にテントを張った。日本酒を一合だけ飲んでシラフにもぐり込んだ。上の段の駐車場にテント泊して夜通し話しているやつらがいたけど、その騒音が気にならないくらいに熟睡してしまった。

9月30日(土)人の話し声よりも頻繁にやって来る車の音の方が気になるもので、朝の六時ごろになるとそれがうるさくて寝てられなくなって来た。起床してお湯をわかして朝食(コンビニ弁当)を食べてのんびり支度して八時に出発した。美濃戸山荘に向かってのんびり歩いていると車が泊まって、
「乗っかって行きなと!」声がかっかった。
なんか朝からついている。美濃戸山荘から、柳川南沢沿いの林道をたどり林道終点で休憩、それから山道に入ってワンピッチで赤岳鉱泉に到着した。午前11時、集合時間まであと2時間。赤岳鉱泉付近で、ココアを作ったりしながらうだうだと待っていると同じ資格更新研修を受けに来たようないでたち(ザックが大きい)の人が二人登って来たので、声をかけた。やっぱりそうだった。彼等は飛騨ガイド組合の所属だそうだ。さらにそれらしい人が二人登って来た。一人は、関西ガイド組合の人、もう一人は我がNIAJ所属の人だった。

人数が少なすぎるからなんか変とか思っている時にものすごく暖かい雰囲気がただよう好青年(といっても三十代かな、四十代だったりして?)が登場した。この好青年が今回の講師のSさん、八ヶ岳ガイド組合所属だった。 講師を含めて総勢は六人のこぢんまりした研修が始まった。赤岳鉱泉の食堂で入ってお茶飲みながら自己紹介と日程確認をしてから、ジョーゴ沢のF2にまで、交代でガイドとクライアントの役をしながらショートロープにつながって行って来た。S講師のショートロープはクライアントとただつながっている感じがしない。“思いやり”の動きがあるのだ。その秘密はもちろんS講師の相手を思いやる心の豊かさにあるけれど、テクニックとしてはロープ(時にザック、時にハーネス)の持ち位置を変えることのようだ。S講師とクライアントとの距離が微妙に変化する。僕はS講師の動きをしっかりと頭にインプットして
『一つ技術をもらったな・・・。』とひそかに感謝した。
赤岳鉱泉に帰って、二人のクライアントとショートロープで繋がる場合を研修した。アイゼンを履いている時とそうでない時で二人の間隔が異なるあたりまでを確認してこの日の予定を終了、夕食後のミーティングを眠気のスゴイ中でクリアして、僕はすぐに寝てしまった。他の何人かも同じく早く寝たようだ。

10月1日(日)、5時に飛騨のガイドの方のかけた目覚ましがけたたましく鳴って起床、パッキンをすまし、朝食を食べて出発した。荷物を全部背負って大同心稜から横岳に登り、硫黄岳と天狗岳を越えて黒百合ヒュッテに入るという日程だ。強行軍を予想していた僕は超軽量化していたから良かったけれど、他のメンバー達のザックはちょっと重そうだ。まあ僕よりみんな若いから大丈夫だろう。ルートを知っている僕が先頭になりみんなを大同心の基部まで案内した。実は大同心の雲稜ルートの取り付きがわかっていなかった僕は地元ガイドであるS講師に勇気を出して
「取り付きはどこですか?」と聞いてみた。
『指さす程度かな』と僕は思っていたのだが、なんとS講師は取り付きまで連れていってくれて、ピンの位置を指さしてくれた。
『Sさんの大同心稜でのこういった丁寧な対応に感謝するためにも、このルートは登りに来なくてはならない!』と思った。
大同心の基部でショートロープをセット、大同心を右に回り込んでⅡ級程度の岩場をロープを伸ばしてスタッカットで登る。
「このあたりは夏の初めは一面のお花畑、こういう所をガイド出来るのが山岳ガイドの醍醐味でしょうね!」とS講師。
『僕だってここで講習会をやってますよ!』と言わない僕。
大同心を回り込みで大同心稜の尾根を詰めて縦走路に出た。そのまま横岳を往復して来てから、ようやくショートロープをほどいた。

11時、アラレがパラパラ降ってきた、そして本降りの雨に変わって行った。横岳から硫黄岳に縦走、横岳山頂にてコンパスベアリングの実習をした。コンパスベアリングとはポイント毎に進行方向と西偏の北との角度を数字で記憶していて、地図を見ずにコンパスだけで進行方向を決めて行く方法である。ホワイトアウトしている時に有効であると推察出来る。二人が二十メートルほど離れて歩いて後ろからと前から方向を修正すれば非常に正確にに進める。
「GPSを位置の測定として用いるよりも、高度計として使う方が有効ではないかと思うんですよ。50センチ単位で正確に高度が出て来ますよ。それとコンパスベアリングを組み合わせるといいですよ。」とS講師。
「大きな雪原で旗をたてて遊ぶのがいいですよ。」ともS講師。
確かに、航空機並の計器行動が出来るかも知れないけれど、GPSの電池が極低温下で使えるかが疑問である。 硫黄岳を越えて、夏沢峠を越えたあたりの斜面で引き上げの練習をした。僕が得意の引き上げのロープワークを雨の中でバッチリ決めた。三分の一、五分の一、六分の一、七分の一、九分の一とどんどん指示が出るがなんなくクリアしてしまった。
『なんてったって、救助訓練毎年やってるTimtamだからねフフフ!』とほくそえんだ。
S講師から引き上げの支点の所の巻き付け結びがカラビナを通って負傷者側から引き上げ側のロープに移動することがあるので注意するようにという指導があったので実験してみた。その移動によって引き上げシステムが完全に機能しなくなるのを確認した。
『こういうことをタイミング良く指導出来るS講師はタダモノではない・・・。』と感心した。

15時、黒百合ヒュッテ着、ミーティング、夕食、自由時間、就寝。 10月2日(月)朝から本降りの雨だった。中山を超え、紅葉の美しい白駒池に下り、麦草峠から五辻まで歩いた。『去年結氷した白駒池の上を歩いたっけな!』と思い出す。最近はこんな雨だったらまずショートカットしちゃっていたから、ひさしぶりのロングな雨の道、新鮮な気持ちで丁寧に歩いた。五辻にあるアヅマヤで骨折者の手当と搬送の練習。その後、S講師の救急セットの中身を公開してもらった。ぼくより少し多いが似たような物が入っていたのでちょっとうれしくなった。12時30分ロープウェイ山頂駅着、ロープウェイ山裾駅まで降りて、食事をしながら反省会、14時に解散となった。 飛騨の衆とNIAJの仲間でタクシーに分乗して美濃戸に帰った。マイカーを回収し、諏訪南インターに向かう途中の温泉モミの木の湯(鉄分の多い天然温泉)で体を温めて、混んでいない中央道を一気に東京に帰った。(M記)

| | Comments (0)

« September 2006 | Main | November 2006 »