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December 11, 2006

生活の延長線上にある山

Timtamの山はアルピニズム(より高く、より困難を目指す)の山ではありません。でも、Timtam青山図書室の蔵書リストを見ると沢登りや岩登りや雪山登山の資料や登山技術解説は別として、小説紀行の分野はアルピニズムの旗印の下に山に登った登山家の著述が多いです。そういう本がとても多く出版されて来たからなのです。
植村直己、今井通子、和泉雅子(サイン入り)、加藤保男、小西正継、三浦雄一郎、加藤喜一郎、加藤文太郎、ヘルマンブール、モーリスエルゾーグ・・・ect

登山界をそして一般社会をアルピニズムが席巻しているようです。アルピニズムの山(
①険悪な谷の遡行、
②数百メートルの大岸壁の登攀、
③冬季クライミング、
④海外の高峰登山、
⑤ハイグレードの数値を追う(フリークライミング5.13やボルダリング2段)、
⑥日本百名山の完登、
⑦ある山域の沢全トレース、
⑧最年少及び最年長記録、
⑨氷と岩のミックスクライミング
⑩大冒険(ジャングル、極地、砂漠、洞窟・・・)
ect.)を目標にする方は現在も多くいてとても輝いています。アルピニズムの山を見たり、近づいたりするツアー登山に出かけて行く人も多くいて、それもまた、輝いています。

Timtamの山はアルピニズムの山ではありません(再掲)。
入会案内の冒頭の文章にはTimtamの山のことが書いてあります。
①四季おりおりの生活の延長線上にある山・・・忙しくても山に行ける。
②日常生活を豊かにするための山・・・仕事も家事もはかどる。
③山は「そこにいるだけでイイナアと感じる所」・・・心も健康になる。
④とにかくたくさん山に行くために・・・世界が広がる。
                              (文:M浦)

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December 07, 2006

三丁目十番地の風景

1950年頃から1955年頃、
太平洋戦争が1945年に終わってから5年を経過した頃、
ようやくほとんどの人が飢えすぎるほどに食べ物がない状態を脱した頃、
人の命が戦争で奪われることなくその寿命の年齢まで生きられるようになったばかりの頃、
電気冷蔵庫も電気洗濯機も電気釜もなく、ラジオはあったけどテレビはない、石油コンロはあったけどガスコンロはない、夏は蚊帳を吊って寝て、冬は炭の火鉢と炭のやぐらコタツで暖をとっていて、ステンレスの流しがなくて、丸いちゃぶ台があった頃、
生活費を得るための仕事だけでなくただ生活するだけのための仕事(炊事、選択、衣類の製作とつくろい、家の補修、食料の買出し、風呂に入ること、などなど)で大忙しの頃、
・・・その頃の子供達(6~13歳ぐらい、その子供達は成長して現在は団塊の世代と呼ばれている)のいる風景を書いてみたい。
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戦争という暗闇から出てきた大人達は、子供達が野に街に出て遊ぶのを無意識の中で喜んでいたようだ。子供達は遊んでも、遊んでも、もう一つ遊んでも、なぜか許された。大人達は許したのでなくて、溢れかえるようにたくさん子供達がいて、そんなのにいちいちかまっていられるほど暇ではなかったのだろう。
かんけり、かくれんぼ、ドンありかくれんぼ、チンパ、始めの一歩、陣取り、ビー玉、おはじき、大きなおはじき、エスケン、肉弾、めんこ、めんこウソンコ、ベーゴマ(フツッタン)、ベーゴマ(ペチャ)、昆虫採集、鳩の飼育、鶏の飼育、四手網での魚採り、えびがに(ざりがに)採り、紙鉄砲作り、工場探検、空き家探検、土管探検、工事現場探検、ビル忍び込み、すずめの巣採り、軟式テニスのボールでの路上野球、正月遊び(路上バトミントン、路上凧揚げ、コマ回し)、ゴム動力飛行機作り、などなど、その頃は現在にはない子供達の遊びの文化が元禄時代さながらに華やいでいた数年間だったのだ。
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ぼくは団塊の世代より年下で1950年の生まれだ。だから1950年から1953年までの間は何も思い出せない、催眠術をかけてもらえば思い出せるかも知れない。
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1954年の風景が少しだけ書ける。
4月にぼくは赤坂幼稚園に入園した。花組だった。幼稚園に行くのを思い切りいやがり、園の門の前で‘はがいじめ’にして中に連れ込もうとする二人の先生(一人は宮永先生もう一人の名前は忘れた)をがんがんとけとばして(大人をけとばしてはいけないと内心は思っていた)家にもどった。家の前に立ちはだかる父と父の姉(すごく怖い)に追い返されてすごすごと幼稚園に行きなおした。
泥絵の具でのお絵かきの授業の様子が思い出せる。まわりの子はなんか形になった絵を描くが、ぼくはぐちゃぐちゃのレロレロの絵しか描いていない。
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1955年の風景はもっと書ける。
4月、赤坂幼稚園月組に進級、紺色の制服を着て、18cm×25cm×18cmの籐で編んだバスケットに弁当を入れて通園(朝は親に連れて行かれた)していた。折り紙の授業で船と飛行機を折る、お絵かきの授業で船ばかり書いていた。幼稚園では相撲が大流行、吉田君というのが一番強くてどうしても勝てない、ちなみにぼくは相撲が強かった。幼稚園の帰りは一ツ木通りを通って、青山通りを渡るまで幼稚園の先生が連れてきてくれて、その先は一人で帰った。三丁目は幼稚園からは一番遠い所だった。
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1955年だったら、幼稚園以外のことも書ける。
父に小さな鋸とトンカチをもらった。木で出来たみかん箱を壊してその板を船の形に切って真ん中に割り箸のマストと立ててはがきを帆にした船を造った。作り方は近所の小学生の兄さん(たぶん泰三さん)に教わった。子供達みんなで弁慶橋のボート場にその船を浮かべて遊んだ(水遊びした)。何隻か目に作った船は形を良くするために、父の引き出しでみつけたナイフで船首を削った。削っていいたら、太ももを5cmほどスパッと切ってしまって、医者に運ばれて、医者はなぜか縫わないで包帯をグルグル巻いただけだった。大きな傷跡となって今も残っている。医者にスピッツという種の白い犬が二匹いてよく吠えた。
家にフロはなかった、三日に一度くらいお風呂屋さんに家族で行った。ぼくはまだ自転車に乗れなくて三輪車に乗っていた。
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ぼくの住んでいたのは東京都港区赤坂伝馬町三丁目十番地だ。十番地には、四角さん、上松さん、山松さん、飯畑さん、福山さん、静岡さん、浅賀さんとぼくの家があった。四角さんの家以外はみんな子供が2人以上いてみんな二部屋の借家に暮らしてた。
近所のお父さんはいつも夕食前に帰ってきていた。おみやげなんか持っていてそれに飛びつく子供達を見てとてもうらやましかった。ちなみにぼくの父は劇場に勤めていて、舞台が終わってから帰るので早くて夜の十時が帰宅、朝十一時が出勤だった。
父といっしょにご飯を食べることは少なかった。たまに食べると行儀の注意ばかりされて、父と食べるのは苦痛というか大嫌いだった。
一丁目と二丁目には紙芝居が来た。拍子木をたたいで子供を集めるのだがなぜか三丁目まで来なかった。三丁目は子供の数が少なかったのだろう。といっても100m×30mほどの丁内に少なく見積もっても30人の子供はいた。時々紙芝居を見に行ったが、お金のないぼくは水飴とか買えないので相当後ろの方から覗くしか出来ないのと、一丁目と二丁目には三丁目の子のテリトリーがないので、十分くらい在て三丁目に帰ってしまうのが常だった。
三丁目の細い私道の片隅で小学生のお兄さん達がベーゴマをやっていた。虎屋の羊羹工場の駐車場のコンクリートの上では同じくお兄さんたちがメンコをやっていた。
羊羹工場と自動車修理場以外にビルは一つもなくて木造の平屋の家作ばかりだった。
あちこちに小さな空き地があって原っぱになっていた。モンシロチョウとシジミ蝶がよく飛んでいて。アゲハはなかなか来なかった。クソバッタとかいう土色バッタが多くてトノサマバッタはなかなかいなかった。石を上げるとトカゲが飛び出した。アシナガバチの巣があちこちにあって、お兄さん達はそれを見つけるとハチの子を採って食べていた。雨っぽい日はかたつむりが出た、おおきなガマ蛙も出た。
二丁目と三丁目の間の坂道に駄菓子屋さんがあってお兄さん達がいりびたっていた。ぼくも月に一度くらい親に連れられて駄菓子屋に行った。一円札が通用していた。
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子供達の母親(ぼくの母も同じ)は毎日買い物に行っていた。一ツ木通りの東側の入り口からロクシーというケーキ屋さん、ストッキングの伝染したのをなおす店、薬屋、電気屋、パン屋、陶器屋、化粧品屋、うなぎ割烹料理店、乾物屋(みふね)、八百屋、魚屋(ウオマツ)、豆腐屋、金物屋、フロ屋、果物屋、赤坂幼稚園のあるお寺、本屋(金松堂)、蕎麦屋(増田屋)と並んでいた。増田屋の近くの細い道を入った所に子供達に大人気の駄菓子屋(ひらのや)があった。
当時の女の人は和服を着てその上から割烹着を着ている人が多かった。母親達は毎日のようにミシンを踏み、毛糸編み機を動かして子供達の洋服を作っていた(雑誌「主婦と生活」には洋服の型紙の付録がいっぱい付いていた)。子度達の履いている靴下はみんな穴があいて、母達がその穴をつくろったものだった。
買い物の商店街には六の日に縁日が立った。風呂の帰りに家族や近所の子と一緒になって金魚すくや水風船とりをした。秋にはお祭りがあって、おみこしと山車といっしょに三丁目から氷川神社まで行った。小さい子は山車を引くだけ、子供用の神輿をかつげるのは限られたリーダー格のお兄さん小学生だけだった。
近所の山辺君の家にテレビがあった。箱に入ってなくて機械がむき出しだった。ブラウン管は丸くて、中に四角く写ってた。昼間はいつもテストパターンというやつが写るだけで番組らしい番組は放送していなかった。山辺君の家でだれかに、糸巻きと輪ゴムと割り箸で作る動くおもちゃの作り方をならってその後、よく作った。
昼、三丁目に氷屋が来た。たまに焼き芋屋も来た。たまにチンドン屋も来た。
近所の子供達は中学二年のエライ子(みんなに尊敬されていた)を中心にみんなで遊んでいた。幼稚園生のぼくはおミソでかくれんぼをしても鬼にならないし、野球をしてもアウトにならなかった。
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夕方、豆腐屋がラッパを吹きながら来くころ。風呂がある家が風呂釜に火をつける、薪の燃えるにおいがしてくると幼稚園の子はエライ子の支持で家に帰された。
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団塊の世代が中学を卒業して子供でなくなった頃、後を引き継いだ子供達(つまりぼくら)は彼らのようには遊ばなくなった。親や大人の管理が厳しくなって来ていて、めちゃくちゃで危なっかしい遊びは出来なくなってしまったからだろう(夜遅くまで道路で遊んだり、ビルや工場やよその家の中に入って探検ごっこなんかでもしたら、非行少年の烙印を押されてしまうのだ)。
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団塊世代が青年になった頃に彼らは山に登った(当時が登山ブームだったからだ、どうして登山ブームになったかは以前に今日のTimtamの中で書いたので今回は省略)。そして、団塊の世代の多くは働きざかりになって山から離れた。
今、彼らの第一陣が退職する。遊びの達人である彼らの多くがまた山に帰って来る。
赤坂伝馬町三丁目十番地は現在、大きな製薬会社の本社ビルが立っている。(J記)

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