登山技術としての「仲間作り」
1983年の9月、師匠に最初に教えてもらったことは岩登りと沢登りと雪山と縦走(歩き)の四つの技術と同じかもしかして一番難しい登山技術に「仲間作り」があるということでした。そしていつも、師匠のまわりには素敵な山の仲間が多く集まっていました。師匠は山の仲間作りの達人というべき人なのです。その達人となりえたわけを完全にわかることなくぼくは20年の修行を終えて師匠の側を離れました。
三つ峠に行きました。SZさんもぼくも一般ルート以外は登れそうもないのに、一般ルートはものすごい順番待ちで登れません、それで、SZさんは一般ルートの右隣の地蔵ルートを強引に(腕力中心で)突破してしまいました。SZさんの優れたバランス感覚と強靭な体力がそれを可能にしてしまったのです。そのままぼくらは弱点をついた岩登り3ピッチで天狗の踊り場に到達、天狗の踊り場でトップロープをかけてダイコンオロシを一回登ったら夕方になっていました。以後SZさんとぼくは谷川岳に西黒尾根から登りピークを越えて天神尾根に至りで雪洞を掘る山行、とか、夏の谷川岳東尾根、冬(1985年3月17日)の一ノ倉沢四ルンゼ(本谷)などに一緒に出かけて行きました。でも、SZさんは1985年の6月に一ノ倉沢の北稜を下降中に怪我(全治2週間程度の骨折)をしてしまいました。その後、彼はなぜか山から遠ざかるというか山に行かなくなってしまいました。
1984年の9月より、沢登りと山スキーにTJさんとよく行くようになっていました。TJさんは人を引き付けるふしぎな魅力を持った人でした(その点は師匠とよく似ています)。TJさんはどんどん仲間を増やして、毎週のように個人山行に行っていました。TJさんと行った三面側・岩井又沢はぼくの快心の山行の一つとなりました。
予断ですが、三面川はぼくの父の故郷である新潟県村上市内を流れる川です。村上市に行ったら父の実家の鮭料理が専門の割烹:M浦家(駅の改札口を出て振り向いて上を見上げると看板が出てます)にぜひ行って下さい。
予断から戻ります。TJさんの仲間の間では安達太良山の沢の研究のなんていうテーマがあって充実していました。自分の山の行き方を確立し始めていたTJさんは師匠の山行の手伝いが出来にくくなりました。師匠の勧めもあって、1988年にTJさんはその仲間と共に沢登り専門の山岳会を作って独立しました。でも、まだ弟子だったぼくはその山岳会には参加しませんでした。師匠の所もTJさんの山岳会も他の会の人との山行を禁じていましたから、以後TJさん達と山に行くことはなくなりました。
1990年前後、ぼくにもテーマがありました。お盆の休みは剣の各岩登りルートの登攀、正月は南アルプスの雪山登山、冬の日曜日が谷川岳の一ノ倉沢の雪稜登攀、春と秋はの日曜日は丹沢の沢登りです。お盆と正月と日曜日と国民の祝日しか仕事を休めなくいぼくにとってそれは実行可能な素敵なテーマでした。1年計画で準備して目標ルートにアタックなんてしていました。そのころ、山の仲間はけっこういっぱいになっていました。YHさん、FMさん、KKさん、0Tさん、FYさん、KTさん、ITさん・・・、でも時を経て彼らはそれぞれの道に進み、今、いっしょに山に行っているのはYHさんのみです。FMさんとは1年に2回会います。KKさんはもしかして、現在ぼくとYHさんの所属する青山一丁目山岳会に来てくれるかも知れません。
ぼくは1996年4月に登山教室の運営を請け負う「山塾サポート」を始めました。一人で出来ることではないからKDさん、KZさん、KHさん、WDさん、HRさん、SZさん・・・など様々な山の仲間に手伝ってもらいました。特にKDさんには以後八年もの
間、毎週のようにお世話になりました、感謝の気持ちを今も忘れることはありません。
そしてついに2003年4月、ぼくは6人の仲間とともに「Timtam」を作って師匠の所から独立しました。前記のルールに従い、師匠の所にいる仲間とは山に行かなくなりました。(文:M浦)
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師匠のことばです。
その①…「山の仲間が10人いても3年たてば半分になり、6年たてばいなくなる。」
その②…「山に行く者は常に山の仲間作りを心がけていなければならない。」
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